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聖地 (せいち)
【更新時刻】 2006/12/31 09:25:04
【分類】 [組織] [拠点]
【参照URL】
【関連語】
【意味】 (→意味追加)
(1) 富山県小杉の親鸞会本部がある総面積四万坪の聖なる土地のことをいう。
1985年2月12日に正式取得された。
聖地には本部会館、顕真会館、正本堂などが建立されている。 [seaglet]

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世界の名著に学ぶ会 (せかいのめいちょにまなぶかい)
【更新時刻】 2008/01/07 00:57:50
【分類】 [サークル] [学生]
【参照URL】 http://sekaimeicho100.cocolog-nifty.com/
【関連語】
【意味】 (→意味追加)
(1) 宗教団体浄土真宗親鸞会の学生サークル名。略称は「せかちょ」。
「東大最強の哲学サークル」を自負自称していた。このサークルに限らないが、親鸞会の偽装サークルでは「なぜ生きる」「人生の目的」「あなたは何のために生きていますか?」などが勧誘の際のキーワードで用いられることが多い。
【参照URL】http://greatbook.jugem.jp/
【参照URL】http://study.fan.coocan.jp/ [seaglet]

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絶対の幸福 (ぜったいのこうふく)
【更新時刻】 2008/08/30 04:55:16
【分類】 [教義]
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【関連語】 相対の幸福
【意味】 (→意味追加)
(1) 親鸞会で教える二つの幸福の一つ。
本当の幸福、死が来ても崩れない幸福で、この幸福を獲得することが人生の目的と教えられている。
この幸福を獲得するために会員たちは唯一絶対無二の善知識(仏教の先生)とされる高森顕徹会長(親鸞会創始者)に無条件服従するように指導されている。
この本当の幸福、死が来ても崩れない幸福に対して、ニセの幸福、死に際して崩れる幸福を「相対の幸福」と呼んでいる。
会では絶対の幸福を獲得することを浄土真宗の言葉を使って「獲信」「信心決定」「信心獲得」と呼んでいる。
「善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の『よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり』という真の無条件服従が体験できるのである。この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである」(出典:親鸞会発行『顕正新聞』)

ところで、高森氏は「絶対の幸福」という言葉を獲信した当初から用いてはいなかった。
高森氏は獲信後間もなくは「絶対の幸福」という言葉は用いておらず「最上の幸福」という言葉で獲信した身の幸を表現していた。
創価学会の戸田城聖氏の幸福論に大きく影響されたものと見られる。
最上の幸福」を参照のこと。 [seaglet]

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全国歎異抄研究会 (ぜんこくたんにしょうけんきゅうかい)
【更新時刻】 2007/07/08 03:34:57
【分類】 [組織] [活動] [勧誘] [サークル] [学生]
【参照URL】
【関連語】 歎異抄研究会行動
【意味】 (→意味追加)
(1) 各大学での親鸞会の学生サークルであった歎異抄研究会を統括する組織名。連盟委員長は親鸞会の学生部長が務めていた。
機関紙として『行動』を発行していた。 [seaglet]

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善知識 (ぜんぢしき)
【更新時刻】 2009/06/23 09:55:46
【分類】 [教義]
【参照URL】
【関連語】 高森顕徹
【意味】 (→意味追加)
(1) この場合、「知識」とは仏教の指導者のことで、「善知識」とは仏教を正しく伝える指導者のこと。この指導者がいなければ救われることは不可能であるという。

高森顕徹著『会報 第四集』
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如何に尊い希有の阿弥陀仏の御教があっても、それを我々に教え導く知識がなければ、あってもなきに等しいことになるから救われることは出来ない。
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また、善知識がいても、その教えに従わなければ永遠に苦しみ続けなければならないとされる。

『教学聖典(1)』
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問(43)「善知識の教えに従わないから、永遠に苦しみ続けなければならぬのだ」と教えられた、釈尊のお言葉と、その根拠を示せ。

答(43)○教語開示すれども信用する者は少し。生死休まず悪道絶えず。(大無量寿経)
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また、善知識への従い方については「無条件服従」ということが教えられており、善知識の指示に無条件服従しなければ信心決定できるところまで進めないと説き、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早めることになると教導されていた。

親鸞会発行『教学問題解説書』
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善知識に対する心念を教えられた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。


善知識の仰せなりとも「成るまじき」なんど思うは大なる浅間しき事なり。成らざることなりとも、仰せならば、「成るべき」と存すべし。(御一代記聞書)

解説
・心念――念い。
・善知識の仰せには如何なる場合でも、無条件服従をしなければ、信心決定できるところまで進めないことを教えたもの。
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親鸞会発行『顕正新聞』
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善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の『よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり』という真の無条件服従が体験できるのである。この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。
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ちなみに『会報』では、善知識の重要性についての記述には全5集のうちの第四集と第五集が費やされており、親鸞会での出版物での善知識に関する記述はここから引用される場合が多かった。

ところで、親鸞会の機関紙では高森顕徹氏を呼ぶ際に「善知識」を冠する例は枚挙に暇がない。
「ああ善知識高森先生」
「この善知識高森先生を師表とあおぐ我々は正に世界一の果報者である」
「幸にも私には億劫にも遇い難い善知識高森会長先生がついていて下さいます」
「善知識会長先生は『後生の一大事』をくる日もくる日も叫び続けて下さいます」
「私が善知識高森会長先生の御法話を初めて聞かせて頂いたのは中学三年の時でありました」
「善知識高森会長先生の御後に従うものは破邪顕正せずしては入門の許可はできないのであります」
「我が善知識高森会長先生は誰よりも素晴らしい生甲斐をこの私に与えて下さったのであります」

「大善知識」を冠する例も見られた。
「大善知識会長先生をのみ御尊師と仰ぎ命がけに信心決定に頑張らせて頂きたく思っています」
「今や親鸞会は無二の大善知識高森会長先生の日夜をわかたぬ生命がけの大悲伝普化の御活躍によって目ざましく一大飛躍を遂げようとしております」
「我等の使命、昭和の大善知識ましますことを、今年も力の限りお伝えする」

さて、親鸞会では「善知識の仰せには如何なる場合でも、無条件服従をしなければ、信心決定できるところまで進めないこと」の根拠されていた『御一代記聞書』の一文であるが、その前後も含めて引いておこう。

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一、善知識の仰せなりとも、成るまじなんど思ふは、大きなるあさましきことなり。成らざることなりとも仰せならば成るべきと存ずべし。この凡夫の身が仏に成るうへは、さてあるまじきと存ずることあるべきか。しかれば、道宗、近江の湖を一人してうめよと仰せ候ふとも、畏まりたると申すべく候ふ。仰せにて候はば、成らぬことあるべきかと申され候ふ。
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親鸞会の解説本では上記から「善知識の仰せなりとも、成るまじなんど思ふは、大きなるあさましきことなり。成らざることなりとも仰せならば成るべきと存ずべし」を抜き出して「善知識の仰せには如何なる場合でも、無条件服従をしなければ、信心決定できるところまで進めないことを教えたもの」と解説しているが、果たしてどうだろう。

この「善知識の仰せ」が蓮如の上では何を意味していたかが問題になる。蓮如は『御文章』の「五重義相章」で次のように記している。
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それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。これおほきにあさましき次第なり。そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と云々。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。
そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。
宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
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この中で善知識については「善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり」「善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり」と述べている。一貫した「善知識の仰せ」は「阿弥陀仏に帰命せよ」これ以外にないというわけである。
このことを踏まえるならば、前出の『御一代記聞書』での道宗の逸話は、善知識の一貫した仰せである「阿弥陀仏に帰命」ということが道宗においては成じているということを示したものであり、「この凡夫の身が仏に成る」、煩悩具足して決して救いようのないものが必ず救われるということの本願力の不可思議を仰いで讃嘆したものであると言える。決して救いようのないものが必ず救われる、決して成らないことが必ず成るという不可思議、その慶びのあまり、道宗は「善知識の仰せであれば近江の湖を一人で埋めることでさえも成らないことはない」と言い切ったのである。
親鸞会の解釈はこのような「阿弥陀仏に帰命」という上での道宗の慶びに通じていなかったためか、字面だけを追って「善知識への無条件服従」を教義化してしまったように見える。道宗のこの逸話は断じて「善知識の仰せには如何なる場合でも、無条件服従をしなければ、信心決定できるところまで進めないことを教えたもの」ではないのである。

ところで、『御文章』の「五重義相章」は十劫邪義(十劫安心)と知識帰命邪義(善知識だのみ)を挙げており、これらを批判し注意喚起している内容である。よって「五重の義」を出したのも、それが知識帰命邪義の根拠にされることを警戒してのことであろう。「宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり」は「五重の義」を受けて述べられていることで、善知識の重要性がその中に示されてあるが、その善知識の重要性は「阿弥陀仏に帰命せよ」と説示教導するところにあるのであって、善知識に無条件服従するところに「五重の義」での善知識説示の力点があるのでは全くない。そのことを教示したのが「しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなり」である。
なお、「みえたり」とあるのは『口伝鈔』『浄土見聞集』などの浄土真宗の文献を受けてのことであると見られる。蓮如が「五重の義」を挙げたのは、当時、これらの文献中の文を引いて知識帰命義の根拠にするものがあって、その邪義を破るためとも考えられる。

また、親鸞会では「善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない」という話の中で『歎異抄』にある「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」を引いている。ここだけでは「よき人の仰せ」の内容が明確ではないので、前文から引いてみる。

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親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
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「よきひとの仰せ」の内容が「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」であることが明確に示されてある。これは「阿弥陀仏に帰命せよ」の仰せに他ならない。「善知識の仰せ」だからといって「何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従する」ことではないのである。また、何事に対しても善知識の仰せに無条件服従していくその先に「信心決定」があるのでもないことは前述の蓮如の教戒しているところである。
[seaglet]

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専任講師 (せんにんこうし)
【更新時刻】 2010/11/16 12:36:14
【分類】 [組織]
【参照URL】
【関連語】 講師部
【意味】 (→意味追加)
(1) 教団発行の『浄土真宗親鸞会を知っていただくために』によれば「専任講師とは一切の職業を離れ、生涯を真実の仏法に捧げることを誓い、高森先生の御指導のもとに各地に布教戦線を拡大している、本会の青年部員をいいます」と説明されていた。
善知識と仰ぐ高森顕徹氏に無条件服従して指導に従っていく、信者の模範となるべき者でもあった。
1996年4月より単に「講師」と呼ばれるようになった。
講師部も参照のこと。 [seaglet]

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